目に見える世界。
昨日の雨のなかをクルマで走っていて面白かったのは、フロントガラスを濡らす雨だった。あまりの雨量のために、フロントガラスはガラス表面に雨の層が形成された状態になっていた。ワイパーを止めてみる。わざと止めてみる。外の世界はフランシス・ベーコンの絵画のようになって見える。
フランシス・ベーコンの絵は、「ラストタンゴ・イン・パリ」のタイトルロールにベルトルッチ監督が引用した。撮影監督のビットリオ・ストラーロに、フランシス・ベーコンのような絵造りを求めたことが知られている。確かにブランドが曇りガラス越しに滲んだ肖像のように見えるシーンなど、フランシス・ベーコンの絵画の引用と思しきショットもある。
根源的に人間存在の不安や孤独を、ベーコンは好んで描いた。それは彼の目が求めた結果だった。
この世界は、自分の目が見るもので構成されてる。現実はガラス越しに広がる世界ではなく、なんのフィルターも通さずに見える世界だが、人間に意識がある限り、感情というフィルターを通して、世界を見ることになる。だからガラス越しに「見よう」と決心した時、僕の世界は、そのガラス越しの風景が、現実の世界だということになる。
フランシス・ベーコンを意識して携帯デジカメでパチリととった写真。ムンクの絵画のようにもみえる。あるいはゴッホの絵画にように風景は燃えている。
昨日、友人が最近購入したSONYのサイバー・ショットを見せてくれた。彼の撮影した日常を、カメラに内臓のスライド・ショーで自動生成し、音楽もつけてくれて再生できる。それは自分自身でつくった映像ー映画の記憶ーの面白い遊びだった。音楽の楽しみのように、映像がポータビリティのウォークマンのように携帯される時代が訪れている。それは新しい映像世界を、僕たちにもたらすだろう。
僕たちの目に見える世界は、僕たちが豊かであればこそ、豊かに見える。今までのように与えられた映画・TVの映像を享受するという古典的なフレームから、自分たちが生成して楽しむフレームへと拡張していくことだろう。
友だちの私的な経験(親族の葬儀に臨む父親の表情)がモノクロームで語られる映像クリップをみせてもらって、そこにあらたな可能性があることに気がついた。それを二人で語り合った。
映像がジャズのインプロヴィゼーションのように展開される時代を、明日僕たちは歩んでいることだろう。
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