禁断の映画「憂国」
注文して翌日(今日)到着。「幻」の映画はこうして僕の手許で「リアル」になった。amazonからというのが今っぽい。
取扱注意。本当に。僕は開封したけれど、まだ観ていない。どのタイミングで観ればよいのか。僕が観るには何らかの儀式(イニシエーション)が必要である。
真面目な仕事のDVDパッケージ。三島由紀夫自筆の「憂国」と題された小冊子(P40)。三島の「製作意図及び経過」と題された貴重な創作ノートは収穫だった。
大勢の人々の助言を経て、三島は彼の核心のテーマを映像化した。その経緯が本人の筆で描かれている。三島がこの映画製作に賭けた思いと興奮が伝わってくる。その無防備な程の思いが、僕には切ない。
やはり、三島の天才に時代を生き抜いて欲しかった。僕は熱烈な三島ファンではないが、彼の多くの文学的業績を経て、同時代を幼い眼で見詰めてきた者として、やはり歳を重ねた三島氏の知性を日本は必要としたと今日の状況をみて思う。
「憂国」。それは重い言葉。
彼が事件を前に残した言葉は今でも僕に問いかける。「或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもならなくなっているのである」三島は日本の魂(たましい)の消失を予見していたと僕は思う。
その知性は1970年11月25日に潰えた。
ーそれでも武士か!と叫ぶ三島の声が自衛隊員の野次でかき消されるニュースに、芸術家の悲劇を僕はみた。何という酷い野次かと高校生の僕は思った。
そのようなエピソードがあって、僕には「憂国」を普通の映画を観るような形では鑑賞できないのである。
いつか観る日が来る。
禁断の映画の封印を、自分自身の意志で解く自由を僕は得た。
| 固定リンク
コメント