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2006年6月14日 (水)

「されどわれらが日々ー」と「トニー滝谷」

仕事で通ってる大学の図書館で懐かしい本に再会した。芥川賞受賞作。柴田翔の“恋愛小説”「されどわれらが日々ー」。

Vfsh0107 書架からその本を抜き出した。表紙の傷み具合が感動的だったので、思わずパチリ。貸出歴をみる。大勢の人が読み継いできたのが判る。女性が多い。読者に恵まれた幸福な本である。

僕は三十年以上前、京都の大学を受験してその帰路、京都駅の書店で購入し、新幹線の車中で読み終えた想い出がある。当時僕の高校は進学校で東大を受験する人が多かった。この小説は東大生の話で、背伸びした高校生はかなりこの本を読んでいたと記憶する。

今にして思えば、この小説の背景となる政治風景はファッションだと思うし、描かれた人々がある時代のある人種を描いたというにも、無理があると思う。

けれど、この小説には、瑞々しい抒情が抑えられた形で流れていて、それが青春時代を生きる若者の心を捉えたのだろう。東大に入ってこういう大人の恋愛をするのかなあ・・・したいなあ。憧れの中で僕もこの本を読んだ。

性がこれ程商品化する国になるとは・・・。欧米では考えられないクラスファイされた性のサービス体系がある日本は、壮大な実験国家だ。高度資本主義の究極が形成される入口に、この小説は永遠の恋愛小説という位置を占めている。去勢されたロマン主義のように。

Vfsh0108 柴田翔の小説は、その後ほぼ全部読んだ。僕は東大ではなく、都の西北にある大学に入った。政治の季節は終焉し若者のエネルギーは演劇や映画に向かう時代だった。消費に取り込もうとする資本側の若者文化が少しずつ胚胎していた。大学のキャンパスでは政治を叫ぶ拡声器の横を、恋人たちが通り過ぎた。

村上春樹が通った学科に僕は通っていた。がその時には知る由もない。けれど彼の言う“女の子とはタダですることをした”時代を僕も生きていた。「されどわれらが日々ー」程、頭で生きようとする人たちでもなく、性の解放を目指すご乱行派でもなく、恋人との時間の中で、すべては自然に起こり、自然に終わっていった。そうやって社会に出て行った。

「トニー滝谷」の映画に流れる時間は、そういう時代を生きた人間の過ごす、すべては失われ一人になったと自覚する世代の社会人の物語である。坂本龍一の音楽が胸に沁みる。「されどわれらが日々ー」と「トニー滝谷」は僕の中でそのように結ばれる。

されどわれらが日々ー。

とても素敵な響きのタイトルだなあ。

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コメント

こんにちは。
村上春樹氏の短編「トニー滝谷」がどんな風に映画化されているのか、非常に興味深いです。
大切な女性を失った孤独感がひしひしと伝わって、とても好きな小説なので・・・。

柴田翔氏の作品は読んだ事がありませんが、「されどわれらが日々ー」というタイトルに惹かれるものがあります。図書館で探してみます。

投稿: 麻波郎 | 2006年6月16日 (金) 10時05分

麻波郎さん

「トニー滝谷」のDVDは、大きいレンタル・ショップであれば、1本位は置いてあるはずです。(何本もズラッとは置かれていないと思います。)

坂本龍一の音楽が出色の仕上がりだと思いますが、あまり先入観を持つといけませんから、我慢します。

面白い撮影方法をしていますが、それは観てのお楽しみということで・・・。
(六本木のスタバからコメントします。)

投稿: チャーリー | 2006年6月16日 (金) 16時42分

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