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2006年6月11日 (日)

雨の日に、フランクルを手にして

ヴィクトール・エミール・フランクルという人を教えてくれたのは、高校時代の片思いの相手だった。雨の日の図書館で、フランクルの本を手にして読んでいる。彼女と高校の帰り道に図書館で勉強した。高校生の僕はただそれだけで、うれしかったし緊張もした。

フランクルは、オーストリアの精神科医(兼神経科医)で、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所を奇跡的に生き延びた。収容所経験を基に、戦後ロゴセラピー(あるいは実存分析)と呼ばれる心理療法を創始した人である。彼は妻も家族もすべて収容所で失ってしまった。

1997年に92歳で逝去。しかし今なお彼の著作は、世界を照らし続けている。

高校時代に、その片思いの彼女に薦められたのは、フランクルのナチス強制収容所における体験記録、『夜と霧』と『死と愛』だった。僕はまだ子供っぽい高校生で、今にして思えば、彼女の方がはるかに大人だった。背伸びして買った本には恐ろしい写真と難しい文章で、僕にはとても荷が重かった。

大学生になって、映画をたくさん観るようになってから、アラン・レネというフランス人の映画監督が好きになった。「二十四時間の情事」「去年マリエンバードで」「戦争は終わった」「ミュリエル」など、難解だが今でも心に残る映画である。そのアラン・レネがアカデミー短編映画賞を取ったのが、確か『夜と霧』だった。

何度も、自主上映でこの『夜と霧』を観た。「夜と霧」は、確かナチスのユダヤ人絶滅計画の作戦名だったと記憶している。

この映画は、直接フランクルの体験記とは関係ない。しかし、僕の中では、フランクルの著作を映像という即物的な手段で、極めて知的にアプローチしたものとして、こころに突き刺さっている。

平和なアウシュビッツの緑に包まれた情景と、モノクロームで記録された収容所の記憶が交差する。戦争終結後、連合軍によって、解放された時の収容所のやせ細ったユダヤ人たちの瞳が忘れられない。それは喜びに満ちた表情ではない。いまだ人類が体験したことのない絶望的な体験を経て、虚脱し、深い哀しみを湛えた眼差しだった。

この映像に、大学生の僕は息を呑んだ。そして戦争のもたらす真の狂気を知った。アラン・レネと収容所体験を経た脚本家は、残された写真や記録映像に胸を痛めながら、この短編映画を仕上げたという。死者をして語らしめる。動かなくなった人間が語りえることで、後世に平和を問いかけてくる。

Vfsh0078_2 僕が今日、雨の日に手にしたフランクルの著書の題名は、『<生きる意味>を求めて』と題されている。

平和になった今でも、人間は幸せとは呼べない境遇におかれている。しかし不幸を生むのも人間だが、偉大さを示すのもまた人間である。

Vfsh0075_1 図書館には人間の叡智が集まっている。先人の叡智に少しでもふれる事で、何かが変わるかもしれない。

目の前にひろがる緑には今、霧のような雨が降り注いでいる。

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