「生きる」を観て
録画しておいたTV特番「生きる」を観た。お墓参りをした日に観たのは、偶然ではない。松本幸四郎の熱演と、脚色・市川森一の批評性を感じた。演出もケレン味のない手堅いものだった。
黒澤明が「生きる」に込めた思いを今、思う。黒澤明は彼の監督作品に彼の人生の全てを注ぎ込んだ。辛酸を舐めもした。彼の映画は残った。今でも世界中の映画人に敬愛され、学ばれている。その事実が映画「生きる」のプロットに重なってみえる。主人公が公園を造ろうとする「生きがい」は、そのまま黒澤が「映画」を造ろうとする思いに通じる。
人は「何を語ったか」で計られはしない。何をしようとしたか?何をなしたか?-その行動(アクション)で計られる。何のために。誰のために。何を為そうと試みたか?何を為したか?
それが神話になる。神話は大衆の胸の内に生きるドラマである。
TVの「生きる」ではユースケ・サンタマリアが、その遺志を継ぐ役割のようだった。
たった一人でもいい。志を継ぐものをこの世界に残せたら、それは幸せだ。人知れず微笑まん・・・そんな美意識を黒澤の時代、日本人は美徳としていた。
そう、誰に語らずとも、「生きる」の彼は、町に子らが遊ぶ公園を残したのだから、自らに「よく生きたね」と労ったに違いない・・・。
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