「椿三十郎」(黒澤明)を見返して
織田裕二の「椿三十郎」を心の中で想像してみるものの、三船敏郎のイメージが強力すぎる。映画の評判が気になる。何故「椿」か?よく理解できていない。この機会に、黒澤明の「椿三十郎」(1962)を見返した。
黒澤明の頂点はなんといっても『七人の侍』(1954)。「椿」の翌年には「天国と地獄」(1963)が控えてる。『七人の侍』と他の作品を比較すべきではないし、「椿」も他の監督が一生かけても辿りつけない骨太の娯楽活劇である。いやむしろ現在量産され続ける時代活劇の原型を作ったとさえいえる。
「椿」は三船敏郎の映画だ。
彼の父性の映画で黒澤の父性もまた「椿」に投影されてる。ドスドス人を切るシーン、人を食った強い三船の余裕。そしてある種の疎外感。若者と三船(椿)は永遠の断絶のままドラマは終わる。
「鞘にはいってない刀」の喩え。これは東宝を離れ黒澤プロで映画を造る黒澤明にも当てはまる喩えだ。最後の決闘シーンも当時の観客の度肝を抜いたろう。大ヒットを飛ばし続ける裏には、恐ろしく深い闇が広がってる。
それを黒澤は知ってたに違いない。
「天国と地獄」の権藤(三船)に語らせるクラフツマン・シップは、そのまま黒澤の映画造りにあてはまる。
仕事命な黒澤明に、誰が勝てるというのだろう?
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コメント
織田裕二さんには何の恨みもございませんが、彼の「用心棒」などぜったいみないと思います。どういう意味があるのか?
投稿: arriba | 2007年12月 4日 (火) 00時24分
>arribaさんへ
織田裕二さんが起用されたのは、多分、事件が会議室ではなくて現場で起こってるからではないかと・・・。
三船敏郎は、大人の男の色気がありましたね。
投稿: チャーリー | 2007年12月 4日 (火) 04時04分