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2008年3月12日 (水)

「ブレイブ ワン」の結末は話せない

ちゃんと今晩、観終わった。

(映画の結末を話すのはルール違反なので、ここではふれません。)しかし監督ニール・ジョーダン、やはり「クライング・ゲーム」の監督だけあって、二ひねりしてる。

奇妙な愛の物語だった。復讐の物語であるよりも、再生と出会いの物語。

ジョディ・フォスターのブルーの瞳に整った鼻筋、痩せてしなやかな肢体があってこそ成り立つフィクションかも知れない。

それにしても、「一線を越える」という言葉は文字通りよく出来てる。「一線を越え」たら、再び元の世界に戻ることはできないのだろう。

映画を通じて、ジョディの扮するラジオのパーソナリティが都市の音をマイクで収録してはナレーションをかぶせて番組をつくる、そのプロセスが描かれる。

現実を切り取っては、編集して、現実をある視点で捉えていこうとする試みは、この映画の構成のアナロジーかもしれない。

世界を捉える方法として、興味深い。

この映画でジョディが差出すマイクロフォンは、セクシュアルなメタファーとなっている。

おそらくニール・ジョーダンは、ある暗示を込めてそのシーンを撮影してるはず。

ジョディ・フォスターの腕の動きが印象的なシーンが、ふたりが出会うシーンとなる。

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