« 八月の終り 九月になれば | トップページ | 黒澤明 「蜘蛛巣城」 »

2008年9月 2日 (火)

新書「仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか」

幻冬舎新書のこの新刊は5/30に第一刷、7/25には第七刷である。

売れてるらしい。

Gymで筋トレをしてる自分が読んで、ふむふむ、成る程、と納得の内容だった。

第1章「筋肉はビジネススキル」、第2章「目的は「続ける」こと」、第3章「トレーニングの原理原則」、第4章「トレーニングの常識・非常識」、第5章「トレーニングがうまくいく人、いかない人」、第6章「食事と睡眠の質を上げる」、第7章「フィットネスクラブ、トレーナーはどう選ぶ?」、第8章「できる人のトレーニング」、第9章「筋トレで学ぶ成功法則」。

ほぼ毎日Gymに行く。

ボクは思う。

「できる人」は「筋トレ」をする。vs.「筋トレ」をする人は「できる人」である。

この二つのテーゼは、全く別物ではないか、と。

脳は筋肉ではない。

むしろ「できる人」という言葉には、功利的な、競争意識を刺激する、何か個人主義的な響きがある。

メディアを通じ、<できる人>は大手を振るけれど、「できる人」など幻想の産物である。

人は自らできることをすればいい。

ならば、ボクは何故筋トレをする?

それを考えた。

きっと、筋トレはストイックな行為なのだ。

保守的な身体に向き合う時、人は謙虚になる。

自分が如何に出来ないのか、を思い知る。

そして僅かながら、できることをする。

し続ける。

「できる」とか「できない」とか、小賢しいことを乗り超えて、生き延びるために。

安穏として、生きられようか。

だからGymに行く。

毎日変わらぬことを持続する。

それで難局を乗り切ってきたし、また乗り切れると信じたい。

自分を信頼する。

習慣を守ることによって。

「できる人」になどならなくてもいい。

求道的な営みを日々、自分に課したいのだ。

大人もまた、安穏と生きてなんかいないのさ。

|

« 八月の終り 九月になれば | トップページ | 黒澤明 「蜘蛛巣城」 »

コメント

おはようございます。できれば、「できない人」になりたいものです。(いやそれはもう実現してるかも……)

投稿: arriba | 2008年9月 3日 (水) 05時03分

>arribaさん

「できる」より、「色気ある」とか、「粋な」とか、「洒脱な」とか、もともと日本語には色々な価値観を表す言葉があったのですね。

「いなせな」というのも、ありましたね・・・。

投稿: チャーリー | 2008年9月 4日 (木) 20時15分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 八月の終り 九月になれば | トップページ | 黒澤明 「蜘蛛巣城」 »