新書「仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか」
幻冬舎新書のこの新刊は5/30に第一刷、7/25には第七刷である。
売れてるらしい。
Gymで筋トレをしてる自分が読んで、ふむふむ、成る程、と納得の内容だった。
第1章「筋肉はビジネススキル」、第2章「目的は「続ける」こと」、第3章「トレーニングの原理原則」、第4章「トレーニングの常識・非常識」、第5章「トレーニングがうまくいく人、いかない人」、第6章「食事と睡眠の質を上げる」、第7章「フィットネスクラブ、トレーナーはどう選ぶ?」、第8章「できる人のトレーニング」、第9章「筋トレで学ぶ成功法則」。
ほぼ毎日Gymに行く。
ボクは思う。
「できる人」は「筋トレ」をする。vs.「筋トレ」をする人は「できる人」である。
この二つのテーゼは、全く別物ではないか、と。
脳は筋肉ではない。
むしろ「できる人」という言葉には、功利的な、競争意識を刺激する、何か個人主義的な響きがある。
メディアを通じ、<できる人>は大手を振るけれど、「できる人」など幻想の産物である。
人は自らできることをすればいい。
ならば、ボクは何故筋トレをする?
それを考えた。
きっと、筋トレはストイックな行為なのだ。
保守的な身体に向き合う時、人は謙虚になる。
自分が如何に出来ないのか、を思い知る。
そして僅かながら、できることをする。
し続ける。
「できる」とか「できない」とか、小賢しいことを乗り超えて、生き延びるために。
安穏として、生きられようか。
だからGymに行く。
毎日変わらぬことを持続する。
それで難局を乗り切ってきたし、また乗り切れると信じたい。
自分を信頼する。
習慣を守ることによって。
「できる人」になどならなくてもいい。
求道的な営みを日々、自分に課したいのだ。
大人もまた、安穏と生きてなんかいないのさ。
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コメント
おはようございます。できれば、「できない人」になりたいものです。(いやそれはもう実現してるかも……)
投稿: arriba | 2008年9月 3日 (水) 05時03分
>arribaさん
「できる」より、「色気ある」とか、「粋な」とか、「洒脱な」とか、もともと日本語には色々な価値観を表す言葉があったのですね。
「いなせな」というのも、ありましたね・・・。
投稿: チャーリー | 2008年9月 4日 (木) 20時15分