映画「グラン・トリノ」 涙した・・・
イーストウッドの最新作「グラン・トリノ」が今日、封切られた。
その初日に観た。
そして、観るに値する作品だった。
(ストーリーを語り、楽しみを奪ってはいけないと思い、映画から離れた視点で語ります。 ご安心ください。)
イーストウッドが、手練手管で泣かそうとしてるか?
そうではない。
しかし映画の最後で、じわじわと涙は止らなかった。
それは78歳のイーストウッドが「生と死」というテーマに自ら思索しながら役を演じ、監督していることが伝わってくる映画だったから。
アメリカの挽歌でもある。
フォード社の「グラン・トリノ」。
この象徴的なクルマがタイトルのこの映画は、男の人生の最後を飾ることについて、イーストウッドの意志を表明してる。
人は孤独な存在。
けれど、人は人によって成長し、人から人へとバトンを渡す中で、生きる意味を形作っていく。
西欧と東洋の断絶もまた、映画の中で見事にキャスティング・ボードとなる。
文化や人種の相克が、しかし人間を豊かにする。
映画を観て、本当に良かったと思える瞬間が、この映画にはある。
人は七十代になろうとも、成長しうる事、いい仕事をし得る事を、イーストウッドは自ら映画を創ることを通じ、示した。
それは、「グラン・トリノ」の主人公・コワルスキーの生き方にも通じる在り方だ。
今幸せに漂う人には、この映画は必要ない。
しかし、人生は幸せに漂ってばかりで終わるものではないのだから、いずれいつの日か、この映画に出合えて、それだけで、幸せだと云える時もあることだろう。
イーストウッドの中に、男の色気を感じる。
絶えず、前に進もうとしている人間には、艶があるのだ。
「グラン・トリノ」。
それにこだわること自体、男という生き物の在り方なのだ。
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