ゼロ・ダーク・サーティー
今日、アカデミー賞が発表される。
映画「ゼロ・ダーク・サーティー」は、どのように評価されるだろうか。
映画の出来栄えは秀逸だ。
2001年9月11日の米同時多発テロからビンラディン殺害までの十年間を、この映画はCIA情報分析官マヤを軸に描く。
CIAのIは、Intelligenceである。
この映画は、そのインテリジェンス(情報)についての映画だ。
ジェシカ・チャスティン演じるマヤは尋問の立ち会いも行って、収集された膨大な情報の分析に従事する。
ビンラディンの居場所を突き止めるまでには、ヒューマン・エラーも含め膨大な障害や挫折があり、地味で根気がなければ務まらない仕事であった。
執念とか狂気、とか通常の劇映画において描かれるようなステレオ・タイプで人物造型をしないのは、監督キャスリン・ビグローの知性である。
それを体現したジェシカ・チャスティンは、けれど十年の彼女の成長を演じることに成功している。
アルカイダの正義とアメリカの正義がある。
マヤはアメリカの正義の追求を、ビンラディンの居場所を突き止めるという任務において行った。
それは彼女の仕事であり、彼女の能力を発揮できる唯一の場であったかもしれない。
女性でこの映画を監督したキャスリン・ビグローが、監督することが彼女の仕事であり、彼女の能力を発揮できる唯一の場であるのと同じように。
マヤが最後にみせる表情。
(これは映画をみていない人には伏せておくのが礼儀だろう)。
そこに「終わった(Over)」という感覚と共に言語化しえない感情が漂う。
世界は依然として混沌としている。
アメリカという国がどんな国なのか?この映画はそれを示してくれる。
その意味で収穫だった。
けれど本当に興味深いのは、私たちの生きてきたこの十年を、リビング・ストーリーとして描いたこと。
ヒロイックな作り話ではない。
映画館を出れば、忘れられるお話ではない。
それぞれが自分の仕事を忠実に果たそうとしている世界に「ゼロ・ダーク・サーティー」は立っている。
それをたんたんとボクらはみる。
映画でしか体験できない形で。
その体験は、経験に昇華するかもしれない。
そのことが素晴らしい。
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