持論 釈明 謝罪
誰にも持論はある。
権力を有する人、あるいは著名人と呼ばれる人々が持論を展開した場合、TVをはじめとするマスメディアがそれを報道する。
世論を敵にまわしたとする。
次に、釈明する。
この順番でいくと、最後には謝罪がくる。
人の関心が他のニュースに移った頃に、再び、このサイクルが回り始める。
持論→釈明→謝罪。
マスメディアを自らに引き寄せて、大衆にアピールする。
そのような行動様式が透けてみえる。
絶えずそこには目的があり、計算があり、微調整があり、自らの利益となる着地点を模索する。
他の誰かのために、ではなくて、すべては私のために。
言葉にはその人の品性や教養や文化が反映する。
だから、言葉を上手に使えるように、私たちは学ぶべきなのだ。
言葉で誰かを論破したり、誰かを傷つけるために、言葉を駆使すべきではない、とボクは思う。
ワーズーワースがいうように、自ら放った言葉は消えてなくなりはしない。
誰かの心の中にしまわれる。
| 固定リンク
コメント