断捨離
今年の目標の一つに、「断捨離」を掲げた。
それに取りかかるまでに何ヶ月かが経過して、やっと本格的に始めたのがGWだった。
まとまった時間がほしかった。
何しろ本が多い。
捨てる本をブックオフに持っていったら、五千円位になった。
そのお金で息子にご馳走した。
しかしその捨てる本は、一部にすぎない。
今月末までに、前回の何倍かを「断捨離」する予定だ。
「断捨離」するのは、主に土日の朝の時間である。
禅寺で早朝庭を掃き清めるように、といったら、カッコ良すぎるだろう。
とにかく癖になる。
いや、癖になってきた。
とても片付かないと思われていた本やモノたちが、ある日気がついてみたら、終わりが見通せる位のボリュームになっていた。
それは、トンネルを掘っていて、貫通する直前に、向こうの光が一条の光線となってこちらに射し込んでくるような感じだった。
五月には終わるかもしれない。
遅くても六月には終わるだろう。
梅雨になるまでに。
たくさんのモノを捨てるのは、新しいモノを取り入れるため。
できるだけ所有するモノを少なくしていく。
アルベール・カミュの「シーシュポスの神話」のある一節をボクは思い出していた。
シーシュポスがその一瞬一瞬に味わっている感情についての描写である。
「断捨離」のブロセスは、すでにボクには喜びである。
終わってほしくない思い。
ひょっとしたら、「断捨離」は一つの生き方なのかもしれない。
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