BLADE RUNNER 2049
IMAX3Dで二度観た。再び2Dで観た。そして輸入盤CD(オリジナル・サウンドトラック)を購入し映画の世界をサウンドで追体験している。それでもこの『BLADE RUNNER 2049』を語ることは、本当に難しい。自分にとって『BLADE RUNNER 2049』はただの映画ではないからだ。
『BLADE RUNNER』(1982)で育った世代として、この映画の欠点については語りたくない。
三十五年後の今、リブートされたこの作品世界(三十年後)に再び遭遇している。
リック・デッカード(ハリソン・フォード)は三十年生き延びていた。そして我々もまた生き延びた。
『BLADE RUNNER 2049』は自らの記憶と映画的記憶についての映画かもしれない。
『BLADE RUNNER』の記憶が作品のすみずみに配置されている。
2019年のLAの夜景で始まるオープニングの記憶に対比されて、ソーラーパネルが地表を埋め尽くす2049年の昼間の光景が配置される。終局のTears In The Rainは雨から雪に置き換えられ対位法的に配置されている。レプリカントの死に瀕した白鳥の歌。数え上げたらきりがない。ピアノの鍵盤。その響き。そして作られた記憶も愛の記憶も。
あの80年代、レプリカントはボクらに近い存在だった。ゴーギャンの大作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』( D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)に似たデッカードのナレーションを聴き、キューブリックの『2001年宇宙の旅』で撮られた空撮映像にヴァンゲリスのテーマ曲が流れるエンドタイトルロール。
輸入盤のレーザー・ディスクを手に入れて初めて観た。
いつまで続くかわからぬ人生。人間存在とレプリカントの存在。そこには痛みがあったが共に愛もあった。
『BLADE RUNNER 2049』でデッカードが呟く「レイチェル・・・」という一言の響きの重さ。ハリソン・フォードの声、表情、それを味わった。三十年という時空を超えて。
『BLADE RUNNER 2049』は映画というよりもある種の人間にとっては体験なのだろう。この映画を映画的記憶として生きていける幸せをおそらくファンは感じている。
映画はデッカードの姿で終わる。
ボクたちはKと共に失われた父親探しをした。自分のルーツを辿る旅。レプリカントであるデッカードの(義理の)息子としてのK。そのKと共にボクたちは“特別であること”の意味を探り、そしてすべてを失っても特別な何かでありたいと願う。
何か意味あることをなし、自らの記憶をつくる。与えられし記憶ではなく自らが刻む記憶。
Kはそのようにして自らの記憶をつくり、自らの人生を手に入れた。
ライアン・ゴズリングが素晴らしい。
Tears In The Rainが流れるラストシーンは今を生きるK=ボクらの息子たちの世代のものなのだろう。
映画はKの死を暗示して終わるが、死んでほしくはない。
そのKが最後に手に入れようとしたものを今でもボクは味わっている。
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