4月1日 あるいはウクライナ侵攻について
TVは新コロナの話題からウクライナ侵攻の報道一色となった。新コロナの脅威を報じるTVは対象をウクライナ侵攻に切り替えて、難民や戦火の犠牲となったウクライナの人々の苦難を映し出す。それらは見ていて苦しい。見ていると、こちらの心がやられてしまいかねない。新コロナにもウクライナ侵攻にも口を挟むゲストやコメンテーターは、少数の知見ある専門家を除いて好き勝手なことを語っている。やれやれ。
ボクはあまりにも世界情勢に無知であったことに気がついた。
おそらく平和ボケといっていい位無知だった。
そこでTVはほどほどにして新聞や映画、ドキュメンタリーで学ぶことにした。
「プーチン」「スターリン」「ウクライナ」「ヒトラー」等の検索ワードで、優秀なドキュメンタリーをNETFLIXで観ることができた。
「プーチン」については彼のライフヒストリーと世界政治で行ってきた事からわかることがたくさんあった。
「スターリン」からはソ連の近代化・工業化が「ウクライナ」の犠牲のもとになされたことを知った。
「スターリン」と「ヒトラー」からは情報戦、プロパガンダによって真実を都合のいい現実につくりかえる方法について学んだ。「トランプ」のしていることはその延長線に位置づけられると思えた。
そして戦争。スターリングラードでナチスドイツがしたこと。スターリンがしたこと。市民が被ったこと。それらのことは皮肉にもウクライナで行われている歴史の皮肉。
ウクライナの人々の近代史を読み解けば、今のウクライナの人々の思いに近づける気がした。
すでに困ったことになっている戦争が、取り返しのつかない困った事態とならないように祈る。
歴史の中で繰り返し独裁者が辿った道を、新たな独裁者が辿るのか否か、見守る。
そうやって4月1日を迎えた。
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