2018年5月10日 (木)

ブログ記念日 満12周年。

「流されゆく日々に、小さいながらもアンカーを打ち込む行為」としてブログの習慣を記した一年前。
それから、あんまり沢山のアンカーを打ち込んでは来なかったけれど、ボクはここにいる。そしてブログを改めて書いている。
「流されゆく日々」に、相変わらず流されている自分がいる。流されることは悪いことではない。けれど、あんまり流され続けるものなんだかなあ・・・と思う今日この頃。時間の中で人はどのようにして「流されずに」生きていくことができるのか?そのようなことを考える中で、やはりこのようにブログを書く習慣に意味を再発見している自分がいる。
どのような壁面に、アンカーを打っているのか?
今のボクは、なだらかな牧草地帯に生きている。草原なので少し足場がゆるいかもしれない。昔、北壁のような岩山にアンカーを打ち続けていた頃とは違って、穏やかだ。
「穏やかな日々」は目標にすべき生活の在り方の一つに違いない。
ただ日々の仕事では、北壁にどのようにアンカーを打てばいいのか迷っているクライアエントを支援している。日々決して少なくない人数のクライエントに向き合って、ほとんどボクの生活の在り様は構成されている。
毎日毎朝、同じ仕事場へと向う時に、「シジフォスの神話」の様だと思う時がある。
時には、立ち止まって、道端の花を愛でなくては。
その様なことを今思う。
その様な朝が、ブログ記念日の朝だ。
きっと幸せな朝です。

(2018年のブログ記念日に書いた文章を添付します。)
5月 9日 (火)
【ブログを書く習慣】
明日5月10日は、自分が初めてブログを書いた日。そこで「ブログ記念日」と名付けた。毎年ブログに関わる何らかの記事を書く。明日の「ブログ記念日」を前にして、ボクはもう一度「ブログを書く習慣」を身に付けようと考えている。
流されゆく日々に、小さいながらもアンカーを打ち込む行為として、ブログを書く習慣を捉え直す。ブログの時代からSNSの時代になって、ブログを読むことはトレンドではなくなった。SNSの代表格であるFacebookにボクは若干疲れを覚えている。人の意見や写真やコメントがスマホを通じて流れ込んでくる。10年程前に想像していたSNSの幸福なユートピアとは違う現実がそこにはある。しかし簡単に、極めて簡単に自己表現ができる時代は良いことだと思う。これからその時代が成熟していくことだろう。より洗練されていくかもしれない。見守ろう。
ブログの最大の読者は、おそらく自分だ。自分が読み返して何か得るものがあるならば、それは良いブログである。言葉の本来の意味である「日記」的要素を、ブログという形式は持っている。何でもある時代だ。きっとスマホを使って簡単に写真も文章もあげられるブログもきっとあるのだろう。しかしボクはまだその存在を知らない。
FB等に比べ写真を簡単にあげることができない。つまり手間暇かかるメディアとしてのブログ。通常人は長い文章を読みたいとは思っていない。しかしブログは長い文章をかくことに向いている媒体である。そのことに気がついた。できるだけ検索エンジンに引っかからないようにしてブログを書き続けたい。何故ならば、未来の自分に今の自分がどのように考えて生きたのかを伝える手段としてブログは優れていると思えるからだ。
そのようなことを考えて、平成29年5月9日は始まった。ブログにそれを記そう。
5月10日 (水)
【ブログ記念日 11周年】
2006年(平成18年)5月10日に生まれた子供は今日が11歳の誕生日。小学校六年生で来年はいよいよ中学生だ。幼稚園の思い出は遠い。小学校の最終学年は未来へと続く。少し大人な中学生へと羽ばたく日が一年後に迫っている。このブログもまた今日11歳の誕生日。どこに向かって羽ばたこうとしているのか?大人の11年間にはいろいろなことがあった。本当にいろいろなことだ。このブログにはあまり赤裸々なことは書かれていない。辛いことも悔しいことも、あまり書かれていない。手元の「日記」は他の人は読まないけれど、ブログは自分以外の誰かに読まれる可能性を秘めた日記だ。辛い時や悔しい時、自分を支えてくれたのは、その辛さや悔しさではなかった。自分を支えてくれたのは、家族であり、友人であり、何より努めて明るく美しい世界に向き合おうとする自分の心性であったと思う。そしておそらくそのような人生への態度(アティチュード)は、ボク自身を良い方向へと導いてくれたのだろう。
この11年間には、未曾有の筆舌に尽くしがたい天災があった。この世界を覆う暴力的な悲しむべき事象もまだ続いている。それについてボクは上手に語ることができない。VU計の針が一気に振れてしまうようなことを、このブログに書くことはできなかった。何故ならば、ボクは自分自身が倒れそうな局面を生きてきたのだから。倒れてしまう訳には行かなかったのだから。ボクのブログではだから辛い現実の記事は少ないはずだ。それがいいか、悪いかではない。そのようにしかボクはブログを書くことが出来なかった。そしてこれからもそうだろう。
どのような時にあろうとも、この世界は美しい・・・。ため息の出るような自然の恩恵にボクは浴してきた。そして人々の善意に励まされてきた。最近思うことは、これからのことだ。未来、と言い換えてもいい。過去を懐かしむ世代のはずだが、ボクはこれからの未来をどこまでいけるか興味を抱いている。このブログに、その未来がきっと記されていくだろう。あまり検索エンジンに引っかからないように、ひっそりと記されるように。いつか大人な息子たちがもっと大人になった時に、このブログを発見するかもしれない。彼らは、どのような思いでこのブログを読むだろうか?

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2017年5月18日 (木)

Blessing in disguise

毎日ブログを書こうと決心した翌朝に書かなかったら、いけません。しかし今朝は10分しかブログを書く時間に当てられないので、10分なりの文章を書くつもりです。

「Blessing in disguise」
村上春樹ファンであれば、この言葉が最新作で使われていることを知っています。

「偽装した祝福」

もしくは
「かたちを変えた祝福」。

今のボクは、今回の再就職“ラプソディー”をそのように受け止めている。

いきなりのGet firedが、スティーブ・ジョブズ氏の人生の転機になったことは有名な話だ。

ボクの場合はスティーブ・ジョブズ氏を引き合いに出すのも憚られるケースだが、ボクの岸辺では同等の扱いをしてもいいだろう。 

自分の人生なのだ。

ボクの理解によれば、祝福とは全く逆の事態と思えることが、後に人生の幸せにたどり着くゲートになることを指していう言葉。

「Blessing in disguise」

五月の朝にふさわしい言葉だ。

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2017年5月10日 (水)

ブログ記念日 11周年

2006年(平成18年)5月10日に生まれた子供ならば、今日が11歳の誕生日。小学校六年生で来年はいよいよ中学生だ。幼稚園の思い出は遠い。小学校の最終学年は未来へ続く。少し大人な中学生へと羽ばたく日が一年後に迫っている。
このブログもまた今日11歳の誕生日。どこに向かって羽ばたこうとしているのか?大人の11年間にはいろいろなことがあった。本当にいろいろなことだ。このブログにはあまり赤裸々なことは書かれていない。辛いことも悔しいことも、あまり書かれていない。手元の「日記」は他の人は読まないけれど、ブログは自分以外の誰かに読まれる可能性を秘めた日記だ。辛い時や悔しい時、自分を支えてくれたのは、その辛さや悔しさではなかった。自分を支えてくれたのは、家族であり、友人であり、何より努めて明るく美しい世界に向き合おうとする自分の心性であったと思う。そしておそらくそのような人生への態度(アティチュード)は、ボク自身を良い方向へと導いてくれたのだろう。
この11年間には、未曾有の筆舌に尽くしがたい天災があった。この世界を覆う暴力的な悲しむべき事象もまた続いている。それについてボクは上手に語ることができない。VU計の針が一気に振れてしまうようなことを、このブログに書くことはできなかった。何故ならば、ボクは自分自身が倒れそうな局面を生きてきたのだから。倒れてしまう訳には行かなかったのだから。ボクのブログではだから辛い現実の記事は少ないはずだ。それがいいか、悪いかではない。そのようにしかボクはブログを書くことが出来なかった。そしてこれからもそうだろう。
どのような時にあろうとも、この世界は美しい・・・。ため息の出るような自然の恩恵にボクは浴してきた。そして人々の善意に励まされてきた。
最近思うことは、これからのことだ。未来、と言い換えてもいい。過去を懐かしむ世代のはずだが、ボクはこれからの未来をどこまでいけるか興味を抱いている。
このブログに、その未来がきっと記されていくだろう。あまり検索エンジンに引っかからないように、ひっそりと記されるように。
いつか大人な息子たちがもっと大人になった時に、このブログを発見するかもしれない。
彼らは、どのような思いでこのブログを読むだろうか?

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2017年5月 9日 (火)

ブログを書く習慣

明日5月10日は、自分が初めてブログを書いた日。そこで「ブログ記念日」と名付けた。毎年ブログに関わる何らかの記事を書く。明日の「ブログ記念日」を前にして、ボクはもう一度「ブログを書く習慣」を身に付けようと考えている。

流されゆく日々に、小さいながらもアンカーを打ち込む行為として、ブログを書く習慣を捉え直す。ブログの時代からSNSの時代になって、ブログを読むことはトレンドではなくなった。SNSの代表格であるFacebookにボクは若干疲れを覚えている。人の意見や写真やコメントがスマホを通じて流れ込んでくる。10年程前に想像していたSNSの幸福なユートピアとは違う現実がそこにはある。しかし簡単に、極めて簡単に自己表現ができる時代は良いことだと思う。これからその時代が成熟していくことだろう。より洗練されていくかもしれない。だから見守ろう。
ブログの最大の読者は、おそらく自分だ。自分が読み返して何か得るものがあるならば、それは良いブログである。言葉の本来の意味である「日記」的要素を、ブログという形式は持っている。何でもある時代だ。きっとスマホを使って簡単に写真も文章もあげられるブログもきっとあるのだろう。しかしボクはまだその存在を知らない。
FB等に比べ写真を簡単にあげることができない。つまり手間暇かかるメディアとしてのブログ。通常人は長い文章を読みたいとは思っていない。しかしブログは長い文章をかくことに向いている媒体である。そのことに気がついた。
できるだけ検索エンジンに引っかからないようにしてブログを書き続けたい。
何故ならば、未来の自分に今の自分がどのように考えて生きたのかを伝える手段としてブログは優れていると思えるからだ。
そのようなことを考えて、平成29年5月9日は始まった。ブログにそれを記そう。

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2010年5月20日 (木)

ブログを再読し始めて 「最前線」のこと

日頃ほとんど読み返すことなかった自分自身のブログ記事を、少しずつ読み返してる。

分量があるので、少しずつ順を追って読み返すと、いろいろな事が判ってきた。

例えば、過去一年間のブログ記事は、今の時間にそのままつながっているために、過去形で読めないということがわかった。

物語のように安心して読めるのは、1年以上前の記事だ。

読んでいて、うれしいこともある。

自分で書いたものでありながら、今の自分を励ましてくれる「過去の自分」がそこにいる。

少し勇気づけられる。

たとえば、仕事で直面する事柄をどのように乗り切ればいいのか?思案する記事がある。

書いている当時は、“仕事の”最前線にあって、どうすれば良いか?

そう思考していた。

今読むと、わかる。

“人生の”最前線で、君は思案していたんだね、と。

それは今でも変らない。

最前線。

on the line.

人生の最前線

そこに君は立つ。

それは今も続いているし、これからも続くのだ。

おそらくボクは最後の最後までon the lineで生きる道を選ぶだろう。

そのことを遠い昔、君は選択していたと知った。

●ブログを読み返すことの意味

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2010年5月17日 (月)

ブログを読み返すことの意味

ほぼ毎日書いてきたブログを、今まで自分で読み返すことは稀だった。

この五月で満四周年になった。

それを契機に、一度読み返してみようと思い立った。

しかし1800強ある記事をネットで読み進めることは、様々な点で困難だった。

量が多すぎる。

最初から時系列で読むことは難しいのだ。

そこで、プリントoutして読むことを思いついた。

そしてこの週末、プリントoutを終えた。

Img_3060

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やりはじめて、自分でその分量に驚いた。

Img_3062

A4の用紙で、12cm。

家族を呼んで、ちょっと自慢。

子供たちは、素朴に「すげぇ~」と驚いてみせてくれた。

(サービス精神の旺盛な君たち、ありがとう。)

部分的に読み返してみる。

未知の自分をそこに発見する気分がした。

四年間に書いた1800強の記事には、おそらく「自分の本質」に近い何かが込められているのだろう。

偏差を取り除けば、自分の生きてきた四年間の意味のエキスを、そこから読み取れるかもしれない。

ー「我々はどこから来たのか?

ー「我々は何者か?

ー「我々はどこへ行くのか?

そんな問いかけに答えられる何かが得られるかもしれない。

子供たちに伝えておきたいことも、そこにはあるに違いない。

「汝自身を知れ」という試みには、どんなことであろうと、そこには意味があると信じて、読み返してみよう。

自分が次に進んでいく上で、きっと何かをもたらしてくれるはず。

そう信じ、今週から少しずつ読み返して行こうと思う。

●ゴーギャン展

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2008年10月15日 (水)

Blog Action Day Night 2008 の会場で

ニフティさん主催のブロガーの集まりに、参加してます。(その会場からブログUpです。)

お台場の会場で。

そもそもブログアクションデイというのは、年に一回、世界中で同じテーマで記事を書きましょう、ということ(らしい)。

今回のテーマは、Poverty

「貧困」。

また、後程ご報告いたします。

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2007年3月17日 (土)

ココログ城 と その中庭

昨日は有休をとり身体を休めるはずだった。そこに急遽クライアントから会議出席の依頼。

お座敷がかかれば、芸者はいそいそ駆けつける。

会議の場所はココログ城。だから休暇を盾にしなかった。

Photo_96ココログ城の外観。

パティオ(中庭)は、中世のお城のよう。

Photo_97バルコニーが・・・。

城内にはココログ人と思しき人々。お昼休みの往来。

御殿山にあるSo-net城とはまた風情が違うなあ。

城内の気風も風土も違う。

ココログ城のパティオのアトリウムは、雨の日も嵐の晩も心強い。

ここで、ボクのblogも管理されてる。

会議はとても気持ちのよいもので、お休みをつぶしても満足いくものだった。いずれまた、ココログ城に来るだろう。

その時には、ココログ姫に逢えるだろうか?

そもそも、ココログ姫はいるのだろうか?いや、いる。

きっと、ここにいる。

お城の奥深くには、お姫さまがいるものなのだ。 

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