2018年5月14日 (月)

疲れない工夫について

仕事量が何ヶ月前から増えた。それまでのやり方では心身ともに疲労すると悟った。

天候も寒暖差が厳しい日が続いている。夏日になったり低温だったり、朝は低温、昼は高温であったりする。そこに雨風が加わる。これからのシーズンにはそれに湿度が加わるのだろう。
疲れないための工夫を考えた。
今朝はTVをつけなかった。窓を開けて新鮮な大気を室内に取り入れた。昨日の風雨に取って代わって五月らしい陽射しが屋外を照らしていた。鳥のさえずりが聴こえる。「ゆらぎのある」時間が流れた。それにふさわしい音楽をかけた。
本を読んだり、簡単なメールチェック等をした。スマホやiPadは使わないことにした。
少し早めに家を出て早めの通勤電車に乗った。混みようも思ったほどではなかった。気温がぐんぐん上がっているのがわかった。ボクは夏の予行演習をしているのだと気がついた。
いつものカフェで静かなジャズが流れている。お客の姿もまばらなのがうれしい。
そうやって、このブログを書いている。
疲れない朝をボクは過ごしている。
「TVをつけない」・・・ただそれだけで、違った時間になった。おびただしく流れ出る音と刺激的な映像を、おそらく起きたばかりのボクの頭は求めていない。
ただ習慣で、時計がわりという名目でつけていたTV。しばらく朝はやめにしよう。
小さなところに「疲れない工夫」は潜んでいるみたいだ。
激務の仕事の中にも、きっとそれは沢山あるに違いない。
そのような眼でこの一週間の仕事を見直してみよう。そのようなことに気づく朝だ。

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2017年11月18日 (土)

「怒り」とその制御について

「怒り」を制御することは難しい。しかし「怒り」を少しでも鎮める方法について考えてみたい。「怒り」は横綱をも倒す。そのような事案が今週起きた。本当に残念なことだ。稀有なる才能を一撃で失わせてしまいかねない事態を引き起こす「怒り」。

例えば「ランチを横取りされる」という例で考えてみよう。「ランチの列に割り込む」でもいい。

誰かが何らかの理由で自分が本来食べるランチを目の前で「お先に」と食べたとしよう。

多くはその誰かは腹がへっている。

横取りされたら、お腹が空いていれば、怒るかもしれない。そもそもお腹が空いているからランチを食べようとしているのだから。

少し自制できる人であれば、静かにその時間をやり過ごそうとするかもしれない。
しかしその心中やいかに?

「怒り」はエネルギーだ。
感情に任せれば、火に油をそそぐように燃え盛る。
6秒待て!という。
確かに6秒待てば、静かにその時間をやり過ごせる可能性は高まる。
しかし内面のエネルギーを上手に沈静化させる仕事が残っている。
その仕事について考えてみよう。
眠られぬ夜を過ごさなくてはならない時もあるはずだ。自らの内面のエネルギーが鎮火していないのだから。

何故、自分は怒っているのか?
それはプライドなのかもしれない。軽んじられる感覚・・・。

しかし相手がまともな人間だと思えなければどうだろう?
あまり怒らないかもしれない。

相手が動物であったとしたらどうだろう?
全く怒らないかもしれない。

自分と同様の価値観を有していると思い込んでいる相手こそ、怒りが沸き起こる確率は高まる。
だから「怒り」に対しては、それを引き起こした相手を<動物>だと思うことによって少し緩和できる可能性がある。「印象操作」する。例えば「ハイエナ」だと思う。近づかない方がいいに決まっている。飢えたハイエナには・・・。
そう考えて「怒り」を緩和できるならば、「怒り」を緩やかな時間の中で代謝する間、有効策になるかもしれない。

そのようなことをブログを書きながら考える土曜の朝。

何だか、ご苦労さんと自分を労いたい。
良き週末を過ごしましょう。
穏やかな時間を!

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2017年5月29日 (月)

身体の声を聴く

土曜の朝になると疲れを感じる。それは悪いことではない。休みということで身体はゆるむ。そして疲れを表現する訳だ。仕事の日には疲れを身体の中に押込めている。その声に耳をかさない自分がいる。

土曜日に歯科医院に行った。医者からこの季節は自律神経が不安定になりやすいと教えられた。 歯の抜去手術も気候が安定する秋がいいらしい。

このところ、気温、湿度の変動がめまぐるしい。

今日は日中は気温があがり陽射しも強くなるらしい。

そして明日は東京の最高気温が30℃になるらしい。

まもなくこの五月は終わる。

毎日少しでも疲れないように気配りしよう。

翌日に疲れを持ち越さぬよう、睡眠をたっぷりとるなどして。

身体の声に耳を傾けるようにしよう。

そのような記事を記した後、五年前のFBの記事を非公開の状態でみることができた。

転職して第三日目が無事に終わりました。
三日、三ヶ月、六ヶ月と3の倍数で考えれば、三ヶ月目の8月24日が当面のメルク・マールとなるでしょうか。

三日目が終わって、慢心や邪心ということについて考えました。


ある組織に入って、慣れてくると慢心や邪心が生じやすくなるかもしれません。

それを戒めなくては。

朝一番に、面接官をされたトップから、このような言葉をいただきました。

「ゆっくり徐々に。お力をお貸しください」。

・・・このような言葉をかけてくださると、身が引き締まる。

決まった時の喜び、まっさらな心を大切にしなくては。

そう誓った。




2012年5月29日の「つぶやき」に励まされている自分がいる。

心の張りのようなものが、その文面から伝わってきた。一所懸命に生きていた自分がそこにいる。

今もまたボクはそうだろうか。
自問してみる。

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2017年2月18日 (土)

get fired

キャリア形成の視点でいえば、今まで自分は様々な経験をしてきたと云えるだろう。転職、失業、再就職・・・。転々職というのもやりました。
そんな経験は、今の仕事(キャリアカウンセラー)に活きている。少なくとも、波乱の時を過ごす相談者の今を受け止める時には。
そんな自分が「get fired」の経験を、今またした。このブログでは「get fired」の経緯は記しません。世の中には突然そのようなことが起きるもの。それがたまたま自分の身に起きた。起きただけ・・・と書けないのは、その衝撃を味わってみて「だけ」と書くにはインパクトのある出来事だと思うからです。
それから三週間、一歩一歩、歩んだ。後退はおそらくしなかった。それは自分がキャリアカウンセラーであるからかもしれません。この五年間、六千人程のお悩みを聞いてきた。
信念。
それがある。
再就職しようと願うならば、必ずその願いは叶う。
それを信じてる。
信じていなければ、お悩みの人々を支援することは出来ない。
三週間で様々な仕掛けをしてきた。
それが出来たのは、自分がこの五年間、非日常の人々を日常的に支援してきたからだろう。
来週は、ボクの次の仕事先の面接選考のラッシュアワーだ。
新しいご縁に恵まれますように。
そう ボクは知っている。
決まるまで諦めないさ。
だから敗れはしない。勝つまで諦めないから。
勝つだけだ。
そうならば、必ず仕事は見つかる。
そう ボクは知っていることをやるだけだ。
決めますよ。
そうやって、六千人の人々に支援してきたことを、ボクはする。
自分が証明する。
証明するとは、就職できることを示すこと。
大丈夫。
針の穴をラクダが通るよりは、やさしいことです。
身を以て証明しましょう。

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2016年10月16日 (日)

 迫害されたか? 迫害したか?

ある集団に自分が所属していて様々な経験をする。それから数年、いや十数年経過して気がつく。「迫害されたか?」「迫害したか?」・・・。その感じ方は極めて個人的な体験だ。答えは身体が覚えている。だから身体が答える。正確な答えが出る。ボクはあの時、迫害される側にいた・・・。そのような感じ方をして自分自身が驚いた。まだ許していないのだ。これからも許さないかもしれない。あの時、ボクとボクの家族が直面した事などを思いだす。許せる訳がない。迫害する、とは迫害する側の既得権益を守る行為だからだ。迫害される側は人生の自由と経済的な基盤が危機に瀕したことを忘れはしない。おそらく迫害した方は忘れる。時が忘却の彼方に自らの欲求で成した行為を流砂の中に忘れる。しかし迫害された方は・・・。映画「ゴッドファーザー」PART2で若きコルレオーネがシシリアの地に凱旋して果たした復讐を思いだす。きっとその日のためにどのような辛苦も耐えて生きてきたのだ。成功して果たそうとしたのは私怨なのだ。悪の感情ほど強力なのだ。そのようなことを考える今日。ボクは今あらためて思った。ボクが戦うべき敵は迫害する側。決して迫害する側にならぬように。周到に自分がすべきことをしよう。

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2016年9月24日 (土)

身体が快復していくこと

滅多に風邪をひかない。風邪をひき熱を出しそこから快復していく記憶。快復の過程で健康の有難さを実感した記憶。

ボクは先日捻挫した。捻挫した足を労わってそろそろと歩く過程で、別の足の膝に無理をかけたみたいだった。しばらく関節が痛んだ。そのような二週間を過ごして、両足が元通りに戻っていくのを感じる。捻挫した足の腫れがひいていった。痛む関節の痛みがひいていった。ボクの身体は休みなく自然治癒を目指して頑張っているのだった。そう実感する。有難い。来週は捻挫する前のように一歩一歩歩けるだろうか。いや歩きたいものだ。一歩一歩噛み締めて歩いてみたいものだ。
身体が快復していく過程で、壊れやすい身体の存在を知る。上手に生きるヒントをボクはそこから得たい。

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2016年4月18日 (月)

休息をとるべき理由

「熊本地震」が熊本にとどまらない様相を呈した休日、前震と本震、そして余震と休む暇もなく続く地震に疲労困憊している被災地の人々の今を思うと胸が痛みます。ここではどのような言葉も無力に思える。SNSで拡散される人々のコメントに被災地から遠く離れた自分が傷つく。そんな経験もした。土曜と日曜日、ボクはどうも上手に休めなかった。TVの報道は問題だらけである。混乱と悲劇の実況放送をエンタテイメントに近づけてはいけない。TV業界は何も学んでいないかもしれない。本震を実況中継している若いアナウンサーは冷静であらねばいけない。あなたは生きている。しかし別の所では人々が生と死を分かつ局面に直面している。その若いアナウンサーにTV局の誰かが意見しているだろうか。あるいは本震の凄まじさを宅内のキャメラ映像で繰り返し流すこと。キャメラが倒れた映像だ。それをもって臨場感をお茶の間に垂れ流さなくてもいい。ボクは何度か気分が悪くなり、チャンネルを変えた。被災の状況を知りたくてTVをつけてるのだが、垂れ流しの映像から得られることは別の情動的なセンセイションだった。そして情報は遅れてやってくる。辛い話が続いた。日曜日は前線が通過してそれに伴い強風が吹いた。TVで事故現場の映像が繰り返し報道された。家が揺れるほどの強風の中で、どうもボクは上手に休めなかった。

一週間に大勢のクライエントの支援をした。

ボクは同じ人間だ。

どうしてよいかわからないクライエントを前にして、休息を勧めた。

何もしなくてよい四月、それでよいのだから。そう告げた。

そう伝えながら、ボクも休まなくてはと決心した。

午後を半休にした。

帰宅してTVはつけなかった。

TVはボクのチカラを奪った。

SNSもみなかった。

SNSもボクには鬱陶しかった。

静かに音楽を聴き横になっった。

そしてこのブログを書いている。

被災地の人々は、ボクが今しているような休息をとれない日々が続いていることに思いをいたす。

何もすることができない。

けれど心から願う。

乗り越えて生きていってほしい、と。

身体を横たえ、少しの間でもまどろむことが出来ますように。
そう願う。

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2015年8月22日 (土)

「集中リゲイン」

「24時間、戦えますか?」・・・そんな迷コピーが印象的なリゲイン。

今度は、“集中” です。

Sbf03081


思わず、買ってしまいました。

就活中の次男坊に、差し入れ しました。

今が、勝負時。

24時間は戦えない。

ここぞという時に、集中して!

勝利を手中に収めてほしい。

●hp

●そのデジタル・プロモーションsite

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2015年5月14日 (木)

フラジャイルな肉体 そしてココロ

今週は台風6号と夏日、そしてGWの終わりの週だった。

4月から新しい環境でがんばっている人も大勢いる。

人は機械ではない。

気温の変動、陽射しの厳しさ、気圧の変動、雨風、そして台風。

日本民族は、このようにして鍛えられてきたのだろうか。

この四季に恵まれた風土。

そこに生きるわれわれ、あなた そして私。

早朝、かすかに喉の痛みを感じた。

昼間の暑さ。

夜は思いの外気温が下がったのだろう。

薄着で寝てしまった。

身体が重かった。

ニュースでは真夏日を警戒するように報道していた。

それに暗示がかかる。

不安定な身体とココロを、久しぶりに感じた。

iPodで、マイルス・デイビスの「Kind of Blue」を聴いているとがんばれそうな気がした。

世紀の名盤。

そうやって乗りきった木曜日。

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2015年2月25日 (水)

本当に苦しい時に

人は鍛えられるのかもしれない。

少なくとも、ボクの場合には。
 
苦しい季節を乗り越えてきた友人をボクが信頼するのは、そこにボクのある季節の自分を投影するからなのだ。

最大の敵は、折れそうになる自分。

その自分を勇気づけて前に進んでいった。

その時に、傍で支えてくれる友がいた。

そんな境遇に送り込んだ組織やそこに所属する人々たち。

影絵のような人々は、死ぬまで、そのような人の痛みを味わわずに生きていけるだろうか?

よろしい、死ぬまでそのような痛みを知らずに、生きたまえ。

良き人生だ。

こころから付き合える友がいることを願う。

人生がなんたるかを、知って、この人生を全うすることを願う。

おそらく、ボクは今でも許してはいない。

それは、システムの問題を許さないのと同じだ。

アウシュビッツを許さない、ナチスを許さないということと同じ。自分がシステムに乗じて加害者にはならぬこと。

こんなことを記しているのは、本当に苦しい季節に聴いた音楽をiPodで聴いていて、心が潤い、記したくなったから。

まもなくボクは今いる場所を離れて、新しい職場に行くから。

加害者にならず、被害者として甘んじるように。

ボクが救いたいのは、苦しい季節を過ごしている人々なのだ。

昔の自分だ。

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