2017年11月28日 (火)

BLADE RUNNER 2049

IMAX3Dで二度観た。再び2Dで観た。そして輸入盤CD(オリジナル・サウンドトラック)を購入し映画の世界をサウンドで追体験している。それでもこの『BLADE RUNNER 2049』を語ることは、本当に難しい。自分にとって『BLADE RUNNER 2049』はただの映画ではないからだ。

『BLADE RUNNER』(1982)で育った世代として、この映画の欠点については語りたくない。

三十五年後の今、リブートされたこの作品世界(三十年後)に再び遭遇している。
リック・デッカード(ハリソン・フォード)は三十年生き延びていた。そして我々もまた生き延びた。

『BLADE RUNNER 2049』は自らの記憶と映画的記憶についての映画かもしれない。

『BLADE RUNNER』の記憶が作品のすみずみに配置されている。

2019年のLAの夜景で始まるオープニングの記憶に対比されて、ソーラーパネルが地表を埋め尽くす2049年の昼間の光景が配置される。終局のTears In The Rainは雨から雪に置き換えられ対位法的に配置されている。レプリカントの死に瀕した白鳥の歌。数え上げたらきりがない。ピアノの鍵盤。その響き。そして作られた記憶も愛の記憶も。

あの80年代、レプリカントはボクらに近い存在だった。ゴーギャンの大作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』( D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)に似たデッカードのナレーションを聴き、キューブリックの『2001年宇宙の旅』で撮られた空撮映像にヴァンゲリスのテーマ曲が流れるエンドタイトルロール。

輸入盤のレーザー・ディスクを手に入れて初めて観た。

いつまで続くかわからぬ人生。人間存在とレプリカントの存在。そこには痛みがあったが共に愛もあった。

『BLADE RUNNER 2049』でデッカードが呟く「レイチェル・・・」という一言の響きの重さ。ハリソン・フォードの声、表情、それを味わった。三十年という時空を超えて。

『BLADE RUNNER 2049』は映画というよりもある種の人間にとっては体験なのだろう。この映画を映画的記憶として生きていける幸せをおそらくファンは感じている。

映画はデッカードの姿で終わる。

ボクたちはKと共に失われた父親探しをした。自分のルーツを辿る旅。レプリカントであるデッカードの(義理の)息子としてのK。そのKと共にボクたちは“特別であること”の意味を探り、そしてすべてを失っても特別な何かでありたいと願う。

何か意味あることをなし、自らの記憶をつくる。与えられし記憶ではなく自らが刻む記憶。

Kはそのようにして自らの記憶をつくり、自らの人生を手に入れた。

ライアン・ゴズリングが素晴らしい。

Tears In The Rainが流れるラストシーンは今を生きるK=ボクらの息子たちの世代のものなのだろう。

映画はKの死を暗示して終わるが、死んでほしくはない。

そのKが最後に手に入れようとしたものを今でもボクは味わっている。

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2017年9月11日 (月)

DUNKIRK

IMAX2Dの席を予約して観た。

ダンケルクの浜に、海に、空に繰り広げられた史実そのままの戦いに観客を立ち会わせる。それが監督クリストファー・ノーランの目指したことだろう。そしてそれは成功している。

ダンケルク撤退作戦が行われた同じ場所で同じ時期に撮影されたと云う。

ナチスドイツのユンカース急降下爆撃機が猛禽のように急降下してくる時の凄まじい音響。

生き残ることの運不運。しかし生き残ろうとする意志。

ダンケルク・スピリットと共にいろいろ考えさせられる映画だ。

そして、イギリス空軍の名戦闘機、スピットファイアの何という美しさ・・・。

ボクはIMAXシアターでもう一度観るだろう。

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2017年6月 6日 (火)

今日は D-day

ネットのニュースで、今日はノルマンディ上陸作戦の決行日だとしった。記憶の中で子供の頃に観た「史上最大の作戦」と大人になって観た「プライベート・ライアン」、このふたつの映画のことが甦ってきた。
共に映画として優れている。傑作と呼べるだろう。
片方はモノクローム、もう一方はカラーならではの映画。 
モノクロームの方は、聖戦のように描かれ、カラーの方は戦争の悲惨さが描かれる。
モノクロームの方では、連合軍は誰もが自由主義を信じており、カラーの方は、戦争の欺瞞に目を向ける。
しかし共にスペクタクル映画として傑出し、エンタテイメントとしてよくできた映画だった。
カラーの方を日本で観て、その一週間後に出張先のロサンゼルスで観た。
アメリカの劇場ではオマハビーチの戦闘場面で老婦人たちが悲鳴をあげ、印象に残っている。
戦争で大勢の若者たちがなくなってきた国、アメリカ。
モノクロームの映画では、世界中の俳優の顔見世興行でもあった。
ジョン・ウェインが出ていた。
絶対に彼には弾が当たらないような顔をしていた。
落下傘部隊の兵士を弔うエピソードが印象に残る。
この戦いには誰もが最後には勝つ と信じていた。
さて 今の世界。
優れた映画は時代を映している。
共に再見したい映画だ。

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2017年5月24日 (水)

“ばかうけ”を食べながら

映画「メッセージ」を反芻している自分がいる。

“ばかうけ”を縦にして眺める。確かに、あの円盤みたいだ。

映画のネタバレを戒めながら、自分の心の中で反芻する概念を書き記そう。

「人生の転機」になる経験をして、その転機を迎える前と後で世界観や世界に対する認識が変わる。それをSF映画という形式を借りて語った物語。主人公の女性の意識の変容と、この世界や運命を受容する過程が描かれて、しっかりとした人間ドラマになっている。

“ばかうけ”の形象をした謎の物体が風景の中に屹立している映像は、優れた造型であった。同じ物体が世界各地に屹立している。それが面白い。

キューブリックのモノリスが彼の「スペース・オデッセイ」(2001年宇宙の旅)において象徴性を担ったように、「メッセージ」では“ばかうけ”が人工造型と有機的な自然造型を融合し、存在感ある表現として成功している。

映画を観終わって、このように反芻する行為は、自分の体験を経験へと昇華していく過程に似ている。

そのようなことを楽しめる映画は、そうそうない。

映画「メッセージ」はそのようなことを楽しめる稀有な映画だ。

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2017年5月22日 (月)

映画のパンフレットを読む楽しみ

映画「メッセージ」を観た。原題:ARRIVAL。原作はテッド・チャンの「あなたの人生の物語」(Story of Your Life)。

監督のドゥニ・ヴィルヌーブ Denis Villeneuve はカナダ生まれで次に「ブレードランナー2049」の公開が控えている。

素晴らしい出来の映画だったので、久しぶりに映画のパンフレットを買った。
50頁ほどの小冊子を今朝読みながら、映画の感動を反芻する。そんな楽しみは久しぶりだ。

商業的でありながら芸術的であり、啓示的で哲学的な作品。SFでありながら、あなたの人生でもある物語。
きっとこの映画を素通りする人々が多いに違いない。だから“ばかうけ”や“柿の種”のカタチをした謎の宇宙船で宣伝したのだろう。

一人でも多くの人が観れるといいが。

映画が体験でもあることを久しぶりに味わった。
その体験に言葉を与えるために、映画のパンフレットは手掛かりとなりそうだ。
この映画パンフレットもまた楽しい“仕掛け”が施されている。

それは手に取った時のお楽しみ だろう。

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2017年5月19日 (金)

今度の週末に映画をみるとすれば

「メッセージ」だろう。

予告編が秀逸だ。10月公開が待ち遠しい「ブレードランナー2049」の監督でもある。

映画をみる前にはあまり予備知識を入れないようにしている。せいぜい予告編をみる程度。

けれどこの映画には、「ばかうけ」や「柿の種」のネタがくっついている。

今流行りの「フェイク・ニュース」だろうか。

確かに「ばかうけ」や「柿の種」と予告編で観た謎の宇宙船は似ている。

結末が全くわからない状態でみる。

やはり観るならば、この週末だろう。

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2015年8月 3日 (月)

映画「バケモノの子」

感動した。

粗野な熊徹は、黒澤明監督不朽の名作『七人の侍』で三船敏郎が演じた菊千代の再来だ。

きっと細田守監督の心に、菊千代は息づいているのだろう。

うれしかった。

●映画「バケモノの子」hp

●「七人の侍」:ウィキペディア

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2015年6月27日 (土)

映画「思い出のマーニー」を DVDで

去年の夏に劇場で観て、DVDの発売を心待ちにしていた。

発売と同時に購入したものの封を切らずそのままだった。

土曜の午後、観たいなあ そう思った。

機が熟したということか。

夕方から日没までの時間、「思い出のマーニー」を再見した。

心打たれる映画だ。

原作を映画にすることが困難なテーマだろう。一度や二度観て判る映画ではない。

けれど、と思う。

一度観て判る人生の秘密というものが、あるだろうか?

これは自分の秘密を解く物語だ。

嫌いな自分を受容する物語でもある。

それにもまして、夏の物語。

人生の記憶の中で、夏の思い出は輝かしいその人の秘密だろう。

そんな秘密は時の堆積の中で見失われてしまう。

今を生きる ということはそういうことだ。

けれど今とこれからを生きるために、秘密の記憶を発掘することもまた人生を豊かにする方法のはず。

そのようなことを考えた。

ボクはこの夏をイメージした。

かけがえのない夏にするために。

映画「思い出のマーニー」は、そのようにしてボクの未来に光を射し示した。

●「思い出のマーニー」:過去記事

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2015年6月24日 (水)

映画「紙の月」

宮沢りえさんの女優魂をみた。

それだけで観る価値のある映画。

愚かしい話だ。

けれど、宮沢りえさんの存在感は、モラルや倫理的な規範を軽々と乗り越える。

人間って、これ程愚かで度し難い存在なのか。

されど生きたい存在なのか。

彼女の肉体が説得する。

昔、三和銀行の事件でマスコミの注目を浴びた女性を思い出した。

YouTubeで検索しても、その画像は出てこない。

確か、マニラに逃亡した。

そこでTVの取材に応じた実在の女性。

マニラの光が、レンブラント・ライティングのように射していた。

うっすら汗ばんでいた。

国外逃亡した犯罪者が、愛という名のもとに浄化しているような稀有な映像。

その映像が、この映画、このドラマの地下鉱脈に横たわっている。

そう思う。

最初は、愛の渇きなのかと思った。

しかし、そうではない。

人間存在の渇き。

生きることへの渇き だ。

やっかいな業(ごう)である。

抑圧的な職場や社会の中で、登場人物たちは、決してシアワセに生きてはいない。

主人公もまた、どれだけ蕩尽しても、自らの渇きはいえない。

若い男はどんどん堕落していく。

愚かしい愚か者の物語。

しかし、愚かでない人が、この世にいるのだろうか?

そう逆説的に問いたくなる映画。

二度とボクはこの映画を観なおさない。

しかし、この映画の中に生きている宮沢りえさんの栄誉を讃えたい。

素晴らしい演技だ。

生命力は、モラルを乗り越え、そこに存在する。

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2015年6月21日 (日)

映画「ゴーン・ガール」

デビッド・フィンチャー監督は、彼の名前で観なくてはと思える数少ない監督のひとりだ。

「セブン」や「ゾルディアック」、もちろん「ソーシャル・ネットワーク」も。

「エイリアン3」や「ゲーム」も素晴らしい。

陰鬱な映像の隅々に、計算され尽くした意匠が潜む。

「ゴーン・ガール」、また然り。

結婚に、何かトラウマでも? そんなジョークを云いたくなるスリラーだ。

スリラーである以上、語ってはいけないことだらけ。

ひとりで観るべし。

男女で観ることは、避けるべし。

それにしても、本当に良く出来ている。

約二時間半、世界から切り離されて、ある種の悪夢に魅せられる映画。

アメリカの。

ニューヨークの。

あるいは、マスメディアの過熱と個人のシアワセの。

あるいは夫婦を、シアワセを演じることについての。

観るべき映画。

ナイトメアであることの覚悟をもって。

面白い 悪夢です。

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