たぶんボクはいつも上機嫌でいようとしています。「上機嫌でいること」は大切です。生活信条のひとつといってもいい。確か「幸福論」の著者アランが上機嫌であることの美徳を説いていました。そんな自分が、そうではない人と一緒にいるとどのように感じるか?その考察です。
上機嫌ではない人。あるいは不機嫌を表現する人がいます。挨拶しない人もいます。不機嫌であったり、挨拶を返さないことを自己表現にする自由は平和な社会にあっては守ってあげなくてはならない自由のひとつです。
人を不愉快にさせるという点において、それは素敵な自己表現ではありませんが。
不機嫌であることの自由、挨拶を返さない自由、あるいは無視する自由を認めつつ、ボクはそのような人々の行動原理を考えます。
しかしここでその行動原理については語りません。かなり推測可能です。しかしそれを文字にすれば身もふたもない話になりそうです。
無意識にそのような態度をとるとすれば、人は様々な局面でそのような行動様式を反復しているでしょうし、それらが愛されるかといえば、ちょっと難しいアティチュードです。むしろ「私はあなたが嫌いです」という意志の表明ともとらえられ人から嫌われる原因になる確率は高いと考えられます。好きになるのも嫌いになるのもこの平和な社会にあっては個人の自由です。大いに好きになればいいし、大いに嫌いになる自由もあります。
しかし「嫌いだ」と表現しない自由もまたあります。
心ある人は不機嫌な人、挨拶しない人、無視する人に接すると、それは何故だろう?と考え始めます。
それは、罠(わな)にハマることなのだと、ボクは考えます。答えのない迷路に自ら入るべきではありません。相手の罠に入るよりも、相手を罠に誘うことを考えるべきかもしれません。幸せになれる罠を・・・。
不機嫌な人、挨拶しない人、無視する人の自由を心から支持しつつも、そのような人から離れるようにすべきだと今のボクは考えています。
「それは何故だろう?」と人に考えさせるような形の罠。
その企みを上手に無視できるような大人になりたい・・・。
自分のエネルギーを無駄に収奪されないようにすることは本当に大切です。
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そのようなことを上手に出来ないからこそ、この文章をボクは書きました。
「静かな生活」は、むずかしいけれど取組む価値がありますね。
ふう。
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